昭和42年8月8日 朝の御理解
昨夜、定例の総代会がございました。総代会が始まって初めてでございましょうか、十一名の総代さんが全員、揃われたのは。揃うという事はなかなか難しい事ですよね。たった一人がさしつかえが出来ますと、もう出来んのでありますけれども、気長にお繰り合わせ頂いてから、そのようなおかげを頂く。その前の晩が、あの企画のクラスの会合でございましたから、企画の方達が提案しておりますいろんな問題を総代会で解決していかれるわけでございます。その話し合いが丁度十時頃まで、ご祈念が丁度終わって、私が参加させてもらう。最近私も総代会に入らせてもらって、その後、信心の共励をさしてもらうわけでございます。
総代が総代としての信心というところ。総代が特別のその向こう信心をしているというわけではないのですけれども、何と言うてもやはりここの代表の方達でございます。いろいろ話の出ました中に、どの話を頂きましても、お取り次を頂いておかげを受けるということ。これはもうですからピンからキリまで、ね。初心の方達はお取り次の何たるか分からないのに、お取り次を頂いておかげを受けるということ。お取り次とはどういう様なことか。
金光教の信心でいうお取り次ということは、お取り次の働きという事は、どういう様なことを持ってそう言うのかというような事をまあいろいろに分からして頂いている人にも、お取り次の働きの無限ということには限りがないのです。ですからそこの限りのない、その神様のそした働きというもの。めいめいが実感して、めいめいが受けて、受けておいでられておるのではないか。それを信心の程度に応じてだからお取り次を頂いていくという事については、お話できるわけでございます。あの丁度一時間余りでありましたけれども、そういう話でございました。本当にお取り次を頂いてお願いするということ。
例えば、永瀬さんのお届けの中に、お取り次を頂かねばおられません。例えば沢山柿畠を持っておられますから、柿の消毒がございます。消毒なら消毒といったようなことでも、お取り次頂いて致しますと、その合間合間を縫うように、勿論夏のことですから炎天下に間違いございませんけれども、丁度その消毒をする間は、お湿りや、風が吹かなかったり、まあとにかく万事万端の上にお繰り合わせを頂けるというような話でございました。
お取り次を頂いて、いうなら公の場に出る時でも、これは秋山さんの話ですけれども、先日の町内のいろいろな会合。会合という何ですかね。町内の子供さん方を連れてからレクレイションに行かれた時のことなんかでも、最近ではもう秋山さんがもうこういう会合の時には必ず神様にお願いをして下さる。いわゆる神様にお取次ぎを頂いてくださる、ですから秋山さんが参加して下さるといやね、天気の上にも万事の上におかげ頂くという風にその皆さんが思い込んでおられる。それで皆さんが秋山さんのおかげで今日は万事の上におかげ頂いたと言われる。という話を聞かせて貰ってですね、ほんに有難いと思うのです。
これは久富さんのお話でございます。これはお取り次をここでさして頂いたわけでございますけれども、本当にお取り次を頂いてお願いをするという事。お取り次を頂いてという事。それが野菜を作られますから、お取り次を頂いてから野菜を作られます。もうこれは始めの三年間あまりというものはですね、もうほとんど反対でした。御神意を頂いて作らせて頂くと、その野菜は安い、出来損なう。もうこれは不思議なくらい続きました。けれども、その時の考え方がもう相当の信心がやはりあの出来なければ、そんなことはないですね。だからといって神様はあの神の権威にかけてもおかげを見せてやると仰るぐらいでございますから。
初めて、初心の人がお参りしてきて、お取り次を願う。それが右と願って左。左と願って右という事では誰も参ってきませんよね。やっぱお願すると、それはおかげじゃろう。神様のおかげと段々分かるようにおかげを下さる事は間違いないけれども、さあ、信心に少し実が入ってくる。これは教祖の神様のお晩年の頃、参ってくる氏子一人一人に必ず仰ったというお言葉の中に、氏子用心せよ。信心に実が入ってくると神様のお試しがありますぞということであった。勿論信心に実が入ってきた。もうあれも、これもおかげと言わなければおられないという奇跡的なおかげも頂いてきた。信心も段々分かってきた。お取り次を頂くということがどういうことかも分かってきた、ね。
いわゆるお取り次の働きとは、どういうことなのか。それは必ずしも、私どもの願いをいちいちうんそうかと聞いて下さるだけでなくて、場合によったら押しつけもある。しつけをして下さる場合もある。場合によっては願い通りのおかげを下さることもあるけれども、場合によっては右と願えば左といったような事にもなってくるけれども、だんだん信心に実が入ってくる。信心が有難いという事が分かってくる。自分て言うものが分かってくる。こげな事ではおかげ頂かれまいと信心を高めていくとそこから、おかげを受けられる。お取り次を頂いて所謂、私ども信心の内容の程度を教えて下さる場合もある。お取り次の働きは。
それで昨日、久富さんのお取り次を聞かせて頂いております時に、その間お取り次を頂いて、お願させてもらって、こういう事が続くということはね、不思議なくらいにあのー心が動きませんでした、と仰っていますね。お願いをしてからの事であるからというわけなんです。神様の働きに無駄のあるはずはないという事なのです。そういう思い込みがだんだん出来て、そういう思い込みが出来てきてから、本当にそういう思い込みが出来たかという、所謂お試しがある。ほんなこと有難いと言いおるが本当なこつじゃろうかと言うような、言うならば御試練、そのお試し。そのお試しそれを無理をせず、三年間という間は、どうしてっじゃろうかと、これはもう、お取り次を頂かぬ方がよいかというような事なしに、おかげ頂いて参りましたら、最近ではお取り次頂いて、お願いさしてもらって作らせて頂いたら、野菜が必ずおかげを受ける。氏子が神様任せなら、神様氏子任せになると仰せられますから、という所謂、良かっても悪かっても神様任せというところを三年間通らせて頂きましたら、後の三年間は如何にも神様が氏子任せになって下さるというものを感じる。私この辺のところが、すっきっとはっきり、頂かなければいけんと思うですね。そうなんです。
信心させて頂いて、例えば私どもの場合でもそうでした。まあ言うなら、とても大坪さんのような信心は出来ん。出来んと言うて、信心させて頂いていても、起きてくることはもう私の人生の悲しい事は、あの時代に集まったことの様にあったんですから、二十年ばかり前の時分は、しかもあれだけの信心が出来ておられてから、どうしたことじゃろうかと人が言うくらいにあったんです。考えてみると、こういう大きな道を開かして下さる神さまの御神意でもあった、御試練でもあった、いやめぐりのお取り払いでもあった、と言うことになるのです。ですからなるほど信心辛抱ということが言われるのは、合点が行くでしょう。 辛抱しぬかねばいけんのです。その後です、ここで修行生方に何時も言うのですけれどもね、きついこと、きつい時は一応に誰でもきついんだ。けれどもそこの所を辛抱しぬかせて頂くとね、きついけれども有難いと言うそこが生まれてくるんです。それが徳になるのだと、それが力になるのだと。眠たいから、きついから、誰でもそこまでは同じ事。けれども、ここはとこれはと自分の心に思わせて頂いたことは、よしきつかろうが、眠かろうがそこの所を貫かせてもらう辛抱心というものがです、辛抱さして頂いてよかったとか、この間、ここを頂かなければ頂けまいという、所謂信心の妙境と申しましょうか。妙賀とでも申しましょうか。そういう信心の特別の喜びというものは、辛抱し抜かしていただいたその先にしかないという事。
ですからそこのとこをですね、私はそのしだごたで通っちゃ駄目。辛抱。
例えて言うならば、その久富さんの三年間なら、三年間という間は本当という風にさせてもらおうか。どういう野菜を作らせてもらおうかとお伺いをさせてもらって作れば作るほど、それが安かったり出来損なったり。けどもその頃は、久富さんの信心の内容というものはです、もうそんな事は問題でないくらいに、もうすっきりとしておった。はっきりしていた事が、おかげなのです。どうしたこっちゃろうかお願いしてから、お取り次頂いて作ったに。どうしたこっちゃろうか。どうしたこっちゃろうかで三年間続いてはおらんです。はっきり神様の働きに間違いないのだといや、やれ痛や今みかげをという心になれよと仰る様に、こういう風にしてめぐりのお取り払いを下さるのだなあと、内容から言うならです、苦に頂くこともあったでしょう。神様がお試しおんなさるな。この試しに所謂落第しちゃならんぞと言う元気な心もあるかも知れません。
そういうものがです、あるのは有難いですけれども、どうしちゃこっちゃろうか、お願いして、お取り次頂いてしているのに、どういうこっちゃろうか。ここの所こういう信心が十年続いても駄目ですよ。お取り次を頂いての事であるから、私どもには分からん。分からんけれども御都合に違いないんだと思い込ませて頂く。その思い込みがすっきりとしておらなければおかげになりませんです。それが三年、五年続いても、そこの所のために、やはり辛抱が必要だということ。辛抱し抜かして頂いて三年後に分からせて頂いたことはです、あれがお試しであったろう。あれがお取り払いであったろう。現在では言うなら、願わんでも頼まんでも、神様の方が先に立って下さるようにお繰り合わせ頂いているという事。
今日はお取り次、昨日は、そういうまあピンからキリまでのお取り次頂いて有難いということの話し合いが一時間余りではありましたけれども、それぞれありました。
秋山さんの今頃先生、こげな話をして笑われるか知れませんけれどもと言ってその自分が引率して、何十名の人のお取り次を願われた。その結果についてのおかげ。今頃それはもう信心の始めの間であろうが、これからだって同じ事が言えるんだ。こんな素晴らしい事はない。そこにお取り次の働きというものは、信心のない者でも、秋山さんが来ているので今日は大丈夫ばいと言えば安心して頂けるところまで、おかげを受けておられると言う事は、そのくらいの事ではない。笑われてのこっちゃない、そこのところが忠実になされていっておるということが有難い。日々の神様のお取り次を頂いてから働きの上においてもそうだ。
永瀬さんもお取り次頂かなければおられんのだもん。天地が自由になると仰るが本当にそうだ。風があっちゃ出来ん。雨が降っちゃ出来ん。そのお天気とお天気の間を縫うように、風と風の間を縫うように、おかげ下さる。
本当にもう神様の働きは確かなものだなあという事を体験出来ていく時にお取り次頂かなければおられない。かといってお取り次を頂き続けていきおるのにかかわらず、自分の家全体のこと、自分の身の上、一心の上のことにおいても、どうしたことであろうか、これほど信心するのにと言うこともあるけれども、そこの所は、これはまだ自分が信心が足りんのだと分からしてもらい、めぐりの取り払いに違いないといとも分からしてもらい、これはお試しを受けているのだなあというそこのところの信心辛抱し抜かされていく所に、氏子が神様任せなら神様が氏子任せになって下さるというようなおかげがね、現われてくるようになってくる。
かと言って、ならずーと良いことばかりではない。私どもがならあの時代に、本当に人生の難儀というものは、あの時代に、あの僅かばかりの間に集めてしまったかのように難儀が続きましたけれども、その後一つも難儀がないのかと言うとそうではない。私どもがあの時代にほんとに人生の難儀というならあのわずかばかりの集めてしまわれたかのような難儀が続きましたけれど、その後もうひとつも難儀がないのかというとそうきゃない。・・?において申しますと一日の上におきましても、一年間の間にもはあ、あの時がお取り払いであった。ある時はお試しであった。あの頃で信心が一段進んだといった事はあるんです。けれどもそこに大きく区切ってみるとですね、久富さんの場合でももう三年間は損ばかりちゃったばってん、後から現在までズートおかげばっかりという事はない。その中にあっても場合によっては、出来損なったこともあろう。又、安くなった事もあろう。けれども大体においてそういう、おかげがはっきりしてくるところのもう、おかげを頂く時ですね。良につけても悪しにつけても、やはりお取り次を頂き続けなければならないものが、お取り次の働きというものがこの様に素晴らしい。
例えば私の一番、椛目におります頃、下の栄四郎が向えがお店、五円持って行くと福引きの様な、飴か何かやる当たるのですよね。それをお願いしていくと当たるのですよね。それで必ずお願いにくる。居間からあの福引きを買わせて頂きますからお願いしますと。お願いするともう不思議に当たるのですよね。もう十も続けて当たるんです。それでお願いしてお取り次を頂くという事の有難さが、子供ながら分かってきたのですね。ところがですね、それから一年位しましてから、今度はお願していっても一つも当たらない。それからお取り次を頂こうとはしません。ばからしかと言うようになってきたのでしょうね。ですから、そこのにきが大事なのです。お互い信心さして頂いて、それが飴玉なら良いけれどね、もう本当に信におかげ頂き、頂けない不幸になる。不幸になる堺なのです。
ですから、そこの所を、お願して行ったけれどいっちょん当たらない。そういう時こそ、実を言うたら、お取り次の働きがいよいよはっきりしてきたのだという。いよいよ分からしてもらうのと同時に、改まるということに一生懸命になということ。これはお試しだと分からして頂く、またはめぐりのお取り払いであると御礼を申し上げていくといったような信心が、そこのところがまあ普通の人は難しいといえば、難しいのではないでしょうかね。信心がむつかしか、ね、そうでしょうが。お願していったたんべんに、おかげ頂くといったら、これは信心は見易うて有難いものはなか。ところがどっこいそうばっかりは問屋が卸されないという事。けれども、そこの次の所の信心が難しいといえば難しい。
お願しても右と願えば左。左と願えば右と言ったばっかりしかならんという時代がある。ところがその頃には、神様も分かり、教えも分かり、信心の有難さがだんだん分かってきた頃なのです。ですから久富さんのそれではないですけれども、それが全然引っ掛からなかった。そこに信心辛抱しぬくことが出来た。と言うことになってくるのです。
お話に致しますと、たったこれだけの事なのですけれど、これが実際問題の上にいろいろ現われて参ります時、お互いがそれは、やっぱり動揺致しましたり、これだけ信心するのにと言ったりとそういう事になりますけれども、そこの所を一つ信心辛抱のおかげを頂けるお繰り合わせを願わねばならんというふうに思いますですね。どうぞ。